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地域の皆様に支えられ、社員に支えられ、私たち武田組は2005年に60周年を迎える事が出来ました。
私たちはこれからも地域密着型企業として、さらなる努力をしてまいります。 |
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▼創業期 20年代
戦後復興という時代の中、武田組はその一歩を踏み出す。 |
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昭和20年2月、太平洋戦争から復員した武田二郎(現相談役)は、父から仕込まれた建築業で身を立てる事を決意し、実業家としての第一歩を踏み出しました。
創業後、半年で終戦を迎えるという波瀾のスタートでしたが、むしろそれが彼の使命感を奮い立たせることになります。
戦後間もないある日、郷土を一望するため福山城に登った彼が目にしたのは、愛する郷土が無残な焼け野原となった姿でした。
「建築という仕事を通じて、この傷ついた故郷と人びとの役に立ちたい。」熱い思いが彼の胸を一杯にしました。
昭和20年代の武田組は、まさに戦後復興と共にその幕をあけたのです。
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【沿革】
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昭和20年(1945年)
・現相談役、創業者武田二郎が建設請負業「武田組」を設立。
昭和25年(1950年)
・府中町(府中駅西通り)に木工場を新設。
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▼成長期 30年代
先進技術の導入と人材育成に よって地域建設業をリード。 |
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昭和35年に池田内閣が所得倍増計画を打ち出し、39年に東京オリンピックが開催されました。
武田組も地域経済の成長にのり、大きな改革を遂げていきます。
昭和32年、地元企業では最先端の技術力を誇るようになった武田組は、初の鉄筋コンクリートの建造物を作ります。3階建ての菱備製作所女子寮でした。この後、公共工事の大型化に伴い、武田組の技術力、品質管理力が高く評価されていきました。
30年代の中盤から道路工事など土木工事の受注も増加し、総合建築業としての体制が整っていきました。
30年代は武田組にとって、質・量ともに著しく向上し最初の「技術革新の時代」といえるのでした。 |
【沿革】
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昭和30年(1955年)武田組10周年
・府中市府中町(府中駅西通り)に事務所を移転。
昭和33年(1958年)
・資本金200万円により株式会社武田組を設立。
昭和37年(1962年)
・資本金を500万円に増資。
・府中市高木町656(現府中本店)に機械倉庫、木工場、
鉄筋加工場を新設。
昭和38年(1963年)
・一級建築事務所を併設。
・創業者武田二郎が紺綬褒章を受章
昭和39年(1964年)
・本社を府中市高木町に移転。
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▼発展期 40年代
豊かな人材とたゆまぬ技術革新に加えて、
積極的な設備投資を行う。 |
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昭和30年代からつくりあげていった総合建設業体制が完成したのが40年代です。多くの技能者・技術者を抱え、車両や重機への投資も積極的に行い、鉄鋼や生コンも直営化しました。
主要部分をできるだけ直営で行う方法は、技術や品質の向上、そして何よりも機動性が高まり、ますます信用を高めていきました。
工場、学校、病院などに加え、昭和46年には団地造成という大型工事が増えていきます。
この頃から都市下水道の整備も始まり、建築・土木とも好調に業績を伸ばしていきました。
ところが、昭和48年、どこまでも好調に思えた日本経済を激震させる第一次オイルショックが起こりました。
武田組においてもその影響から逃れることができず、最大の悩みが資材調達の難しさでした。
この危機を乗り越えことができたのは、各仕入れ先の大変なご協力によるものであったことは忘れることができません。
オイルショックは、武田組の創業以来、初めてぶつかった大きな壁でしたが、それもまた良き教訓としてその後の経営に生かされていきました。
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【沿革】
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昭和40年(1965年)武田組20周年
・資本金を1,000万円に増資。
昭和42年(1967年)
・府中芦品建設協同組合を設立。資材共同購入を始める。
昭和44年(1969年)
・福山市本庄町に福山営業所を新設。
・県営大福年金住宅によって「広島県知事賞」を受賞。
昭和45年(1970年)
・本社社屋(現府中支店)を建築。
昭和49年(1974年)
・創業者武田二郎(現相談役)が建設労働災害防止協会
広島県支部理事及び、広島県支部府中分会長に就任。
・資本金を1,955万円に増資。 |
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▼飛躍期 50年代
事業の多角化と同時に営業エリアを拡大し積極的な企画開発営業を展開する。 |
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オイルショックの波瀾の中であけた昭和50年代、武田組にとっては新たな躍進の始まりでした。
50年に生コン部門が別会社として独立、51年にハウジング部門を設立、時代の流れと会社の成長に合わせ事業を多角化していきました。
また52年には上下出張所、53年には甲山出張所を新設し広く営業エリアをサポートしていきました。
54年には福山を本社に、府中を本店にという2大拠点体制が完成しました。
外へ広げるだけではなく、内部固めに目を向け始めたのも50年代です。
経営コンサルタントの指導のもと、部門別管理業務を徹底し、データに基づいたマネージメントを実践していきます。
経営戦略としては、企画開発営業のノウハウを構築し、ゲストエンジニアとしてプロジェクトチームに参画する事が増えました。
これによって、企画・設計・施工・アフターフォローというソフト&ハードの両面からお客さまのお役に立てるようになったのです。
50年代は武田組にとって、営業エリア、事業領域を拡大し、企画開発ノウハウという質を深めた時代でした。
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【沿革】
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昭和50年(1975年)武田組30周年
・系列会社三矢生コンクリート株式会社を設立。
昭和51年(1976年)
・資本金2,900万円に増資。
・住宅事業部タケダハウジングを設置。
昭和52年(1977年)
・労働災害防止運動が認められ、
建設業労働災害防止協会会長より表彰。
・甲奴郡上下町に上下出張所を開設。
昭和53年(1978年)
・世羅郡甲山町に甲山出張所を開設。
・損害保険代理業を兼業。
昭和54年(1979年)
・宅地建物取引業を兼業。
・福山市明神町へ本社を移転。
昭和55年(1980年)
・自社マンション・アパート等の建設・管理・運営を開始。
・資本金3,800万円に増資。
昭和56年(1981年)
・鉄骨加工工場が建設大臣認定鋼構造物製作工場の
認定を受ける。
・建設雇用改善優良事業所として県知事より表彰。 |
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▼成熟期 60年代〜平成
CIを導入するとともに、福利厚生、職場改善に力を入れる。 |
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昭和60年代は武田組が企業として成熟を迎えた年代と言えます。
昭和60年、武田組40周年を期に、武田巧が創業者武田二郎よりバトンを受け継ぎ、2代目社長に就任しました。
請負業から受注産業へ、加工業からエンジニアリング産業への掛け声のもと、企画開発ノウハウを確立し、土地の有効活用コンサルティングなど付加価値の高い事業を創造していきました。
土木部門においても本格的な下水整備や、芦田川のアメニティエリア化、あるいは大型ダムなど独自の技術力を発揮できる多くの工事を受注していきました。
平成2年には、第一次中期経営計画を発表。
また、その一環としてCI(Corporate Identity)を導入。企業イメージの確立とともに、福利厚生や職場改善など社員がやりがいを感じ働きやすい労働環境。お客様に満足を創造しやすい経営環境づくりとともに、人事緒制度を整備。人財を重視した武田組らしいCIを実現しました。
日本全国がバブルで沸き立つ中、地に足をつけた武田巧らしい実直な経営が、バブル崩壊後の厳しい時代においても、リストラを講じることもなく経常黒字の成果を生み出し続けることが出来る礎となり
21世紀を目の前に控え、成熟期から新たなステップを踏み出したのです。
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【沿革】
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昭和60年(1985年)武田組40週年
・代表取締役会長に武田二郎が就任、
代表取締役社長に武田巧が就任。
・産業経済の発展と会社と社会福祉の増進に寄与した
功績により、日本商工会議所会頭より表彰。
昭和61年(1986年)
・心身障害者雇用促進事業所として県知事より表彰。
・創業者武田二郎が府中警察署管内建設関連事業暴力追放
対策協議会会長に就任。
・高齢者雇用優良事業所として県知事より表彰。
昭和63年(1988年)
・府中本店を府中支店に改称。
・積極的な安全対策を講じ労働災害防止に優秀な成績を
あげたことにより、建設労働災害防止協会より表彰。
・申告納税優良事業所として福山税務署長より表彰。
平成元年(1989年)
・府中支店内に木工場を建設。
平成2年(1990年)
・芦田川環境整備工事によって建設省
中国地方建設局長より表彰。
・雇用改善活動の優秀さが認められ労働大臣より表彰。
平成4年(1992年)
・府中市高木町に資材倉庫を建設。
平成5年(1993年)
・社宅「武和寮」を新築。
平成7年(1995年)武田組50周年祝賀会を開催
・武田二郎が全国で初めて労働災害防止功労により
勳五等瑞宝章を受賞
平成8年(1996年)
・代表取締役社長に武田逸司が就任。 |
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▼試練期 21世紀
建設市場の停滞の中、企業理念を忠実に守り
多くの同士である社員と共に新たな挑戦へ。 |
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平成9年から直面したバブル経済の崩壊は私たちに未曾有の試練を与えました。
情報伝達技術や高速大量輸送手段の発達で、国内の製造業は生産拠点を人件費の安い海外に移さざるを得なくなり、国内生産の空洞化が生まれました。
バブル時84兆円(GDPの20%)まで膨らんだ建設投資額は平成15年にはバブル前の54兆円にまで押し返され、バブル崩壊による民間投資の減少に加え、社会資本基盤整備においても不足感から過剰感へと民意は高まり、景気対策の特効薬とされていた公共投資においても、建設市場は下降線の一途をたどりました。
建設市場の停滞を背景に、ダンピング・品質の低下・更には構造計算の偽造など様々な問題が表面化しました。
武田組においては、創業からの志でもある企業理念を忠実に守り、智たらざるは努力で、才の及ばざるは真心で、厳しい経営環境の中、多くの同士である社員と共に、リストラの手段を講じることなく経営黒字の成果を毎年あげることが出来ました。
そして、平成2年に発表した第一次中期経営計画。
また、その一環として社員からの提案で導入したCI(Corporate Identity)に加え、2001年ISOを導入し、更なる顧客満足度の進化に向けた取り組みを開始しました。
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【沿革】
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平成13年(2001年)
・ISO9001認証取得。
平成14年(2002年)
・芦田川山手水位観測所新設工事において国土交通省
中国地方整備局福山工事事務所長表彰を受ける
平成15年(2003年)
・三和支店開設。
・甲山支店開設。
平成16年(2004年)
・甲奴支店開設。
平成17年(2005年)武田組60周年
・代表取締役社長に武田直樹が就任。
平成18年(2006年)
・武田組中期経営ビジョンに基づき、
武田組中期経営計画をスタート |
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